2001年9月16日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書1章21ー28節
「権威ある方」
マルコによる福音書は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けら
れた記事から始まり、次にガリラヤ湖で漁師をしていた4人の人を弟子に召
した記事がありました。
そして、その次の記事が今日の箇所です。
これは、主イエスが、公生涯の最初に行われた行為です。
主イエスは、汚れた霊に取り付かれた男を癒す、ということを最初に行われ
ました。
そしてマルコは、福音書の最初において、主イエスが権威ある方である、と
いうことを強調しています。
21節。
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え
始められた。
このカファルナウムは、ガリラヤ湖の北岸の漁村でした。
主イエスが少年時代を過ごされたのは、ナザレですが、その後カファルナウ
ムに行き、しばらくそこを根拠にして、福音を伝え、またそこで弟子たちを
選ばれました。
「安息日」は、原文では複数になっています。
そこで、安息日になるとイエスは常に会堂に行かれたということを意味して
いるでしょう。
会堂は、ユダヤ教の安息日に人々が集まる建物で、そこでは祈りや聖書朗
読がなされ、聖書の説き明かしも行われていました。
この会堂には、誰でも行くことができましたが、イエスは安息日ごとに行っ
ておられたようです。
従って、イエスは敬虔なユダヤ教徒の習慣に従って生活していた、というこ
とでしょう。
これは恐らく、イエスの両親のマリアとヨセフも行っていたことで、イエス
は小さい時から両親に連れられて常に会堂に出入りされていたように思えま
す。
さてここで、主イエスは会堂に入って教えられた、とあります。
恐らくイエスは、ユダヤ教のラビになるための専門の勉強などはしていなか
ったでしょう。
エルサレムのような都会においては、そのような専門的なラビが聖書の説き
明かしをしていましたが、ガリラヤのような田舎では必ずしもそうではな
く、その時々、知識のある者が自由に教えたようです。
イエスは聖書の専門家であるラビではなく、いわば素人であったにもかかわ
らず、イエスの教えを聞いた人々は驚いた、というのです。
22節。
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある
者としてお教えになったからである。
ここでイエスがどのような教えをされたかについては、何も記されていませ
ん。
当時の習慣として、旧約聖書の巻物を司会者から手渡され、その開かれた箇
所について説き明かしをしたのでしょう。
ルカにはそのような状況が記されています。
ルカ4章16-17節。(P.107)
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に
入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が
渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
しかし、今日の所では、旧約聖書のどの巻物が手渡されたのか、そしてそれ
に対してイエスがどんな説き明かしをされたのか、ということは何も言われ
ていません。
ただ、イエスが権威ある方のように語られたので、聞いていた人々が非常に
驚いた、と言われています。
当時のユダヤ教の社会においては、聖書の専門家である律法学者は、権威あ
る人とされていました。
彼らの聖書解釈は、絶対的でした。
しかし、イエスの教えには、律法学者とは比べものにならない位権威があっ
た、というのです。
確かに、当時の律法学者は、社会的に権威があると思われていました。
しかしそれは、彼らが律法の解釈を独占していたからです。
そこで彼らは、昔から伝えられていた解釈を、ただオウム返しに繰り返して
いただけでした。
しかし、イエスの教えは、ただ昔からの解釈をオウム返しに繰り返すもの
ではありませんでした。
むしろ、全く新しいものでした。
27節では、人々が「権威ある新しい教えだ」と言っています。
主イエスは、当時権威があると思われていた律法学者とは全く違った権威の
持ち主でありました。
そして、イエスの話を聞いていた当時のガリラヤの田舎の一般民衆にもそれ
が分かった、というのです。
本当に権威のある方は、誰が見ても分かるのです。
ただ、自分は偉い、自分には権威がある、と思っている人には分からないの
です。
なぜイエスには権威があったのでしょうか。
それは、その権威が神から来ていたからです。
すべての権威は神から来るのです。
人間の権威は全く当てになりません。
なぜなら、社会的に権威があると思われていた律法学者が、中心になって真
の権威者であるイエスを十字架に掛けて殺してしまったからです。
主イエスは、そんな見せかけの権威者ではなく、真の権威者です。
そのことをマルコは、福音書の最初のところで述べているのです。
イエスは、人間の権威ではなく、神の権威を持ったお方だ、ということで
す。
23節。
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
「汚れた霊に取りつかれた男」というのは、何かの病気の人であったでしょ
う。
当時一般的に、病気は汚れた霊によるものだと考えられていました。
この悪霊は、人間を好ましからざる状況に追い込むのです。
そしてこの悪霊は、神の力に対抗するものです。
そして、この悪霊は、イエスが神の力を持った方だ、ということを素早く察
知したのです。
そこで次のように言います。
24節。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体
は分かっている。神の聖者だ。」
ここで言っているのは、病気の人本人というよりは、この男に取り付いてい
る悪霊です。
この悪霊はまず、「ナザレのイエス」と言っています。
これは、相手の名前を知れば、その者の力を制することができるという古代
社会の考えが反映されています。
古代社会においては、名前そのものに力があると信じられていました。
そこで、占いをするとか、敵を呪うなどという場合、神の名前をまず唱えま
した。
そこで、十戒では、神の名前がそのような占いや呪いに使われることを禁じ
るために、第3戒において「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはなら
ない」と言われています。
ここで悪霊は、イエスがただ者でないことを直ちに察知して、イエスの名
前を呼ぶことによってイエスに先制攻撃を加えようとしたのです。
「我々を滅ぼしに来たのか」と言っています。
ここには、病気など、好ましからざる状態を神は欲されないのだ、というこ
とが言われています。
神は、私たち人間からこのような好ましからざる状態を滅ぼそうとされるの
です。
イエスが大勢の病人を癒されたという記事は、神がそのような好ましからざ
る状態を滅ぼそうとされたことの実例です。
神は決して、私たち人間をそのような不幸な悲惨な状態に置くことを欲され
ないのです。
今回アメリカにおいて非常に悲惨な出来事が起こりました。
このような悲惨を神は決して欲されません。
さてここで、悪霊はイエスのことを「神の聖者だ」と言っています。
この「神の聖者」というのは、イザヤ書によく出てきます。
預言者イザヤは、神のことを聖者と呼びました。
この「聖」というのは、元々「区別する」という意味です。
神は、人間やあらゆる被造物とは全く区別されたお方です。
この区別を曖昧にする所に人間の罪があります。
旧約聖書において、偶像礼拝が激しく非難されているのは、このためです。
偶像礼拝は、創造者なる神と被造物の区別を曖昧にします。
すなわち、神によって造られたものを神として崇めるのです。
古代社会において、太陽や月が神になったり、山や大木が神になったり、蛇
や狐まで神になったりしました。
しかしそのようなものはすべて、神によって造られた被造物なのです。
神は、天地万物を創造された神のみだ、というのが聖書の信仰です。
しかしここで、悪霊はイエスの本質をしっかりと理解しています。
イエスも他のものと全く区別された聖者なのです。
25節。
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
イエスは悪霊をお叱りになりました。
4章39節においては、イエスは激しい風に叱った所、嵐の湖は静かになっ
た、とあります。
人間を病気に追いやる悪の力、人間を不安や恐怖に追いやる悪の力に対し
て、イエスは激しく叱るのです。
イエスは、私たちが病気になったり、不安や恐怖に陥ることを決して欲され
ないのです。
そして、悪霊は、その人から出ていって、その人の病気は治ったのです。
ただここで、治ったその人のことは何も記されていません。
マルコの関心は、もはやその汚れた霊に取り付かれた男にではなく、この出
来事を見ていた人々の反応にあります。
この出来事を通して、人々は再びイエスが権威あるお方であるということを
知ったのです。
27節。
人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。
権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを
聴く。」
「権威ある新しい教え」と言われていますが、イエスの人物そのものが権威
あると言うことです。
マルコは、イエスは真の権威者であるということをまず訴えたかったので
す。
カール・バルトという神学者は、イエスの生涯を描こうとして、イエスを
「王なる人」と呼びました。
この世の真の支配者ということです。
イエスが真の権威者であるというのは、この世の権威にではなく、神の権
威に基づいていたからです。
この世の権威は、実に当てになりません。
今は権威失墜の時代だと言われています。
昔は、親や学校の教師、国の政治を司るものは権威がありました。
しかし今はそれらはすべて失墜しました。
親は自分の子供をきちんと教育することができません。
学校の教師もいろいろな不祥事を起こし、社会的にも信用がなくなっていま
す。
政治家に至っては、不正をするのが政治家だというイメージさえあります。
それらの権威が失墜したというのは、考えてみれば当然かも知れません。
それらはすべて、人間の権威に基づいていたからです。
しかし、権威がなければ、この世の秩序はめちゃくちゃになります。
そこで、当てにならないこの世の権威の基づくのでなく、真の権威であるイ
エスを見上げ、イエスの権威に従わなければなりません。
このイエスは、私たちが好ましからざる状態に陥ることを決して望まず、そ
ういう力であるサタンと一生懸命戦われるのです。
私たちは、この真の権威者であるイエスの力に信頼するものでありたいと思
います。