2001年9月2日     室町教会朝の礼拝
         マルコによる福音書1章16-20節
「イエスに従う」
 
 マルコによる福音書の中心テーマは、1章1節にあるように、神の子イエ
ス・キリストの福音、すなわちイエス・キリストによってもたらされる救い
の「喜ばしい知らせ」を人々に伝えると言うことです。
 さて、イエスの少年時代のことは福音書にはほとんど記されていないの
で、ほとんど分かりませんが、大体30歳位の時に活動を開始されたように
思われます。
ルカ3章23節には、
 
イエスが宣教を始められた時はおよそ30歳であった。
 
と記されています。
その時言われた言葉は、前回のテキストだった1章15節です。
 
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
 
 さて、イエスは、その活動の最初に、まず弟子を選んでいます。
恐らくイエスは、ご自分はそう長くは活動できないと予感していたのではな
いでしょうか。
それ故に、ご自分の業を引き継ぐ弟子たちを最初から考えておられたのでは
ないでしょうか。
16節。
 
   イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモン
  の兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だ
  った。
 
イエスは最後はエルサレムに行きましたが、大体はこのガリラヤ湖のほとり
で伝道されました。
最初に弟子とされたのは、シモンとアンデレの兄弟でした。
特にシモンは、イエスからペトロ(「岩」という意味)というあだ名を付けら
れ、十二弟子の中心人物となりました。
シモンとアンデレの兄弟は、比較的貧しい漁師でした。
網の周囲に石の重しをつけた投げ網を打っていました。
網の下部を引き締め、袋のようになった中に魚を捕らえるのです。
シモンもアンデレもこの漁師の仕事を毎日一生懸命していたようです。
イエスはこの二人の生活の場に来られ、二人に出会われます。
イエスは、ある特別な宗教的領域において人に出会われるのではなく、その
人の生活の場にイエスの方から歩み、そこで出会われるのです。
このシモンとアンデレにとっては、湖に網を打つことが、自分たちの生活の
場でした。
 シモンとアンデレは、イエスの話を聞きに行っていたのではありません。
まして、イエスというお方に信奉していたのでもありません。
イエスが湖畔を歩いていても全然気づかずに、ただ自分たちの日常の仕事を
していたのです。
その彼らにイエスの方が目を留められたのです。
そしてイエスの方から声をかけられたのです。
 17-18節。
 
  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言わ
  れた。二人はすぐに網を捨てて従った。
 
イエスは二人に「わたしについて来なさい」と言われました。
この言葉は、イエスがしばしば語られた言葉です。
最も有名なのは、8章34節です。(P.77)
 
  それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従
  いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ
  い。
 
「自分を捨て」というのは、今まで自分の心を占めていた自己中心的な思い
を捨てて、神中心的な思いに変えられることでしょう。
「自分の十字架を背負う」とは、その人その人に与えられている苦しみで、
これはそれぞれによって違います。
そして、苦しみを負っていない人はいないでしょう。
そしてイエスは、そのような苦しみを負っている人をご自分の弟子として召
されるのです。
 さて、イエスに声をかけられたシモンとアンデレは、「網を捨てて従った」
とあります。
これがふたりにとってまさに、「自分を捨て、自分の十字架を背負」うことだ
ったでしょう。
まさに、今までの自分たちの生活の中心であったものを捨てた、ということ
です。
そして新しく生かされた者としてイエスに従ったのです。
 イエスの言葉を聞くということは、耳で聞いて「なるほど」と分かるだけ
ではありません。
イエスの言葉を聞けば、それに従って生きる歩みへと促されるのです。
そこには、今まで自分たちにとって大切だったものを捨てるということを伴
う場合もあります。
今まで私たちにとって大切だったものを捨てる、ということもあります。
パウロは、キリストに出会う前は、誇るべきものが沢山ありましたが、キリ
ストを信じるようになってからは、そのようなこの世の誇りは塵あくたのよ
うになった、と言っています。
フィリピの信徒への手紙3章5節。(P.364)
 
  わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ
  ミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはフ
  ァリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については
  非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であった
  これらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
 
ここには、当時のユダヤ人としての最高の誇りが言われています。
パウロは、家柄も良く、学歴も良く、社会的な地位も最高のエリートでし
た。
しかし、それらのことは、キリストの福音に与り、真の救いを得ることとは
何の関係もなかったのです。
「それらは今では塵あくたと見なしています」と言っていますが、信仰を得
るのに邪魔になっていた、というのです。
自分に誇るものが多くあれば、信仰になかなか入れない、という場合もあり
ます。
しかし、そういう人にも、「自分の十字架」が与えられているのです。
 「自分の十字架を背負ってイエスに従っていく」ということは、なかなか
困難なことです。
否、私たちの力ではほとんど不可能かもしれません。
しかし、そのような私たちに、イエスの方から近づいてこられ、そのような
力を与えてくださるのです。
ここでシモンとアンデレが、全く初対面の人から声をかけられただけで、最
も大切な網を捨てて従うということは、普通では考えられないことです。
ですから、これはシモンとアンデレの決断というよりは、何か全く別の力が
働いたとしか言いようがありません。
私たちも、イエスに従うという場合、イエス・キリストを信じるという場
合、私たち自身の力や決断というより、神の側からの働きかけなのです。
私たちは気づいていないかもしれませんが、神の大いなる力を受けているの
です。
そうでなければ、2千年前に十字架で死んだ人を真の救い主とは信じれない
のではないでしょうか。
 さて、シモンとアンデレは、イエスのあとに「すぐに」従った、とあり
ます。
彼らは、これからどうなるのだろうということを考えなかったのでしょう
か。
生活はどうなるのだろうかとか、家族はどうなるのだろうかとか。
特にヤコブとヨハネの場合は、父のゼベダイを船に残してイエスについて行
った、とあります。
その残された父がどうなるのかということを心配しなかったのでしょうか。
そもそも初対面のイエスについて行って何をするのかということを考えなか
ったのでしょうか。
躊躇や逡巡ということが起こらなかったのでしょうか。
今日の話は、弟子たちの召命の記事です。
旧約聖書においても、特に預言者が神の召命を受けるという記事がよくあり
ます。
その場合、召命は必ず突然やって来ます。
ですから、召命を受けた人は、大体において躊躇したり、逡巡したり、ある
場合は断ったりと言うことがあります。
例えば、モーセがイスラエルの民をエジプトから導くために召命を受けた記
事が出エジプト記にあります。
その時モーセは、
 
  「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが
  僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口
  が重く、舌の重い者なのです。」
 
と言って断っています。
しかし最終的には、神の説得によって、引き受けさせられているのですが。
また、預言者エレミヤは、神の召命を受けた時、
 
  「ああ、わが主なる神よ
  わたしは語る言葉を知りません。
  わたしは若者にすぎませんから。」
 
と言ってやはり断っています。
この場合も神は、「わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と言ってエレ
ミヤを励まし、エレミヤは神に従ったのです。
 私たちは、重大な事柄を決める時、非常に慎重ではないでしょうか。
特に自分の生涯の仕事を決める時などは、よく考え、また誰かに相談するの
ではないでしょうか。
決して即断しませんし、即答しません。
 しかしここで、シモンとアンデレは、またゼベダイの子ヤコブとその兄弟
ヨハネは、「少し考えさせてください」とか「誰かと相談させてください」な
どとは言っていません。
「すぐに従った」とあります。
実際には彼らにもいろいろな躊躇があったが、そのような詳細はすべて削除
されたのだ、という意見もあります。
そうかも知れません。
しかしここでマルコは、イエスの言葉には力があるということを強調するた
めに「すぐに」ということを言っているのです。
彼らに決断力があったというよりは、イエスの言葉に創造的な力があったの
です。
 イエスは、その活動の最初に弟子を選ぶということをされました。
イエスは宣教活動を決して自分だけではなさいませんでした。
イエスは弟子を選び、その弟子と共に生活し、共に宣教活動をされたので
す。
偉大な人物には、必ず弟子がいます。
しかし、イエスの弟子の選び方は、世間一般の人の選び方とは違っています。
大体は、弟子の方が先生を信奉して、自らついて行くのです。
そして先生の方も、そのような自分を慕う信奉者の中から優秀な者を弟子に
選ぶのではないでしょうか。
ところがイエスの場合、その信奉者から弟子を選ぶということをしていませ
ん。
また、特にこの世的に優秀な人を弟子に選んではいません。
このシモンやアンデレ、ヤコブやヨハネは、何の教養も家柄もない一介の貧
しい漁師でした。
かといって、勇敢で精神力の強い人であったかというと、そうでもありませ
ん。
シモンはイエスが捕らえられた時、「あんな人は知りません」と怖さのあまり
3度も否定したのです。
むしろ臆病者でした。
イエスの周りには、大勢の人が集まった訳ですから、その中にはきっと教養
もあり、いろんな意味で優秀な人もいたでしょう。
しかしイエスは、私たちの目からはそれほど優秀とは思われない一介の貧し
い漁師を弟子に選んだのです。
 私たちも欠点だらけの弱い人間かも知れません。
しかし、神はあえてこのような弱い人間を選んでくださったのです。
神の選びは、私たち人間の思いや価値判断を遙かに越えています。
ヨハネによる福音書15章16節には、
 
  あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選ん
  だ。
 
とあります。
私たちにとって重要なのは、そのようにして選んでくださったイエスに対す
る信頼です。
信頼してイエスに従うなら、きっとふさわしい知恵と力を与えてくださると
思います。