2001年8月19日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書1章9-15節
「イエスの活動の開始」
9節。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネか
ら洗礼を受けられた。
マルコによる福音書は、最初に書かれた福音書です。
紀元65〜70年頃に書かれた、と言われています。
マルコは、当時いろいろな地方に伝えられていたイエスについての言葉や行
動についての伝承を集めて一つの書物にしたのです。
しかし彼は、イエスについての伝記を書こうとしたのではありません。
もし伝記なら、幼少時代から書き始めたでしょう。
どういう生まれであり、両親はどういう人であり、兄弟にどういう人がいた
か、少年時代はいかに聡明であったか、こういうことにマルコはほとんど関
心がありません。
従って、もし新約聖書にマルコによる福音書だけしかなかったとしたら、キ
リスト教会には今では大きなお祭りであるクリスマスという習慣も生まれな
かったかもしれません。
マルコはそういうことをすべて省略して、イエスの受洗から書き始めるので
す。
1章1節に「福音の始め」とありましたが、マルコの関心はただキリストの
福音だけです。
そしてその関心からすると、イエスの出発は洗礼なのです。
ただ、9節には「イエスはガリラヤのナザレから来て」とあって、イエスの
郷里だけは明記しています。
イエスがナザレの出身であったということは周知の事実でした。
当時のユダヤには名字がなかったので、普通は父親の名前をその上に付けま
した。
例えば、イエスの十二弟子にヤコブという人が二人いましたが、それを区別
するためにゼベダイの子ヤコブとかアルファイの子ヤコブと父親の名前を付
けて区別していたのです。
しかしイエスの場合、ヨセフの子イエスとは余り言われていません。
それはきっと、父のヨセフが早く死んだからでしょう。
かといって、「マリアの子イエス」とも言われていません。
そうではなく、出身地の名前を付けて「ナザレのイエス」と呼ばれたようで
す。
しかし、ナザレは、旧約聖書には一度も出ず、ガリラヤの片田舎の人々か
らは注目されることのなかった小さな町でした。
そこで、「ナザレのイエス」というのは、少々軽蔑を含んだ意味合いを持って
いました。
ヨハネによる福音書1章のところで、フィリポはナタナエルに「ナザレのイ
エスに出会った」と言った時、ナタナエルは少々軽蔑を含んで「ナザレから
何か良い者が出るだろうか」と言いました。
私たちも出身地を誇る場合があるかもしれませんが、ナザレの出身というこ
とを言っても何の誇りにもならなかったのです。
この世的な評価を受けたいならば、そのような出身地は隠しておいた方が良
かったのです。
しかし、マルコはあえてイエスの出身地ナザレを隠さずにはっきりと言って
います。
ここには、イエスが全く低くなられたということを述べる意図があります。
イエスは、実に神の子であられましたが、自らを低くされたのです。
誕生の時も、貧しい両親の子として、家畜小屋で生まれましたが、活動の開
始に当たってもナザレ出身という何の価値もない肩書きで始められたので
す。
さらにイエスは、ヨハネから洗礼を受けられた、というのです。
このことは、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも言われていま
す。
従って、イエスがヨハネから洗礼を受けたことは、事実であることは間違い
ありません。
このヨハネの授けた洗礼は、4節を見ますと「悔い改めの洗礼」とありま
す。
果たして、このような洗礼をイエスも受ける必要があったのでしょうか。
イエスを神の子として強調したいなら、こんな不利な事実は隠す方が得策で
はないでしょうか。
もしイエスが神の子であるなら、罪はないはずですから、このような洗礼を
受ける必要はないでしょう。
福音書記者は、人々に疑問を抱かせるような記事をなぜあえて記したのでし
ょうか。
この洗礼の記事は、イエスも罪ある人であったということで、イエスにとっ
て不利な記事ではなかったでしょうか。
しかし、福音書記者は、そのことを隠さずにはっきりと記しています。
これは、イエスは神の子であられたが、私たちと違わない真の人としてこの
世に来られた、ということです。
私たち罪人を救うために、あえて罪ある人間になられたということです。
このことをパウロは、フィリピの信徒への手紙2章6-7節において、
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執し
ようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同
じ者になられました。
と言いました。
このヨハネからの洗礼は、家畜小屋での誕生、ナザレという出身地と同じ
く、イエスのへりくだりを表しています。
10-11節。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降っ
て来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わた
しの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
しかし、イエスの洗礼は、他の人の洗礼とは違っていました。
すなわち、その時天から神の声があったのです。
この言葉は、イザヤ書42章1節からの引用だと言われています。
このイザヤ書42章1-4節は、「主の僕の歌」と言われているものの一つで
す。
第二イザヤの中には「主の僕の歌」と呼ばれているものが4つあります。
その一番有名なのは、第4の歌であるイザヤ書53章ですが、この42章1-
4節は、その最初のものです。
ここでは、この主の僕が選ばれた記事です。
神は、この僕を選び、これに霊を与えたと言われています。
そしてこの僕は、苦難を受けて死ぬのです。
それは、多くの人の贖いのためです。
マルコにおいても、このイエスはあの第二イザヤの預言した「主の僕」だ、
と最初の洗礼の記事で暗示しているのです。
12-13節。
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこ
にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におら
れたが、天使たちが仕えていた。
さて、イエスは洗礼を受けられるとすぐ、活動を開始したのではありませ
ん。
活動を開始するに先立って、荒れ野に行かれた、とあります。
ただし、これはイエス自ら荒れ野に行かれたと言うよりは、"霊に送り出され
た"とあります。
イエスが自らの意志でサタンの試みに遭われたのではなく、神によって試練
を受けられた、ということです。
旧約の預言者も、しばしば自分の意志ではなく、神によって試練を受けまし
た。
しかしイエスは、その神による試練に忠実に従われたのです。
イエスは公生涯の最後においても、神の意志に忠実に従われました。
すなわち、十字架への道です。
ゲッセマネの祈りにおいてイエスは、最初どうかこの杯を取り除いてくださ
い、と祈りました。
しかし、それにすぐ付け加えて、「神の御心のままにしてください」と祈り、
十字架への道を引き受けられました。
マルコによる福音書においては、サタンの試みについては詳しくは何も言
われていません。
マタイによる福音書4章においては、そのサタンの試みが詳しく記されてい
ます。
すなわち、それは3つあり、第1のものは石をパンに変えてごらん、という
ものでした。
それに対してイエスは、「人はパンだけで生きるものではない」と応えられま
した。
第2の試みは、神殿の屋根から下へ飛び降りてごらん、というものでした。
これに対してイエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と応えら
れました。
第3の試みは、サタンを拝むなら全世界をあげよう、というものでした。
これに対してイエスは、「ただ主に仕えよ」と応えられました。
しかし、マルコによる福音書には、そのような詳細なことは何も記されて
いません。
ただサタンから誘惑を受けられた、ということだけです。
そして、イエスがどういう試みに遭われたかというよりも、イエスがサタンの
誘惑に打ち勝たれたということが重要です。
私たちが主の祈りにおいて、「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」
と祈る時、私たちにサタンに勝利する力がなくても、サタンに勝利されたイ
エスが私たちを守ってくださるのです。
イエスご自身サタンの誘惑に勝利されたので、また私たちをもそのサタンの
誘惑から守ってくださるのです。
さて、荒れ野で40日に亘るサタンの誘惑を終えられたイエスは、いよい
よ活動を開始されるのです。
14-15節。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝
えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と
言われた。
マルコは、余りよけいなことを記さず、非常に簡潔な記述になっています。
ここでも、「ヨハネが捕らえられた後」とあるだけで、イエスに洗礼を授けた
いわば恩師に当たるヨハネの逮捕には何ら関心を示していません。
どうしてイエスの恩師が捕らえられたのか、そしてヨハネがどうなったの
か、ということは何も述べられていません。
マルコにとって、それはどうでも良かったのです。
ただ、イエスの活動にだけ目を向けています。
すなわち、イエスは、ガリラヤに行って、福音を宣べ伝えた、というので
す。
彼は、エルサレムのような都会に行かず、当時「異邦人のガリラヤ」と蔑ま
れていた地方に行って、福音を伝えたのです。
「時は満ち」とありますが、この「時」と訳されているギリシア語はカイロ
スと言います。
これは、神の定めた時という意味です。
神が人類の救いのために定めた時が満ちた、というのです。
この時は、神が定めるのです。
古い契約の旧約の時代が終わって、新しい時が神によって定められ、そのた
めにイエスが遣わされたのです。
そして、この新しい時に私たちも入れられているのです。
それは、福音と特徴づけることができます。
「福音」とは、良い知らせという意味です。
私たちは、この福音を信じることが求められています。
「悔い改めて」とあります。
私たちが福音を信じるのは、それに先だって、悔い改めることが必要です。
悔い改めるとは、方向転換すると言うことです。
今まで自分中心的な思いしか持っていなかったのが、神の方に方向転換する
ことです。
自分の欲に支配されていたのが、神の御心に従うものへと変えられる、とい
うことです。
イエスの宣教は、これを求めるものでした。
そして、教会の宣教もこれと同じです。
私たちは、悔い改めて、福音を信じるものになりたいと思います。