2001年7月22日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書1章1-8節
「洗礼者ヨハネ」
今日からマルコによる福音書を学んでいきます。
マルコによる福音書は、最初に書かれた福音書です。
大体紀元65〜70年位に書かれた、と言われています。
主イエスが死んで既に30年以上経っている時です。
この時代、主イエスの語られた言葉や主イエスの行われた行動についていろ
いろな伝承がありましたが、マルコは初めてそれらの伝承をもとにして一つ
の書にまとめたのです。
そして彼は、イエス・キリストの出来事を「福音」と特徴づけたのです。
1節。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
原文では、 VArch(初め)という言葉が一番最初に来ています。
これで思い起こすのは、創世記の冒頭の「初めに、神は天地を創造された」
という言葉です。
また、もう一つ思い起こされるのは、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉で
す。
「初めに言があった」。
ヨハネは、言であるキリストが一番初めにあった、と言います。
そして、このマルコは、「福音の初め」と言います。
すなわちこれは、イエス・キリストが福音というものの最初である、という
ことです。
ここでマルコは、イエス・キリストの到来を「福音」と特徴づけています。
そして、そのことによって、イエス・キリスト以前と明確に区別しているの
です。
「福音」というのは、「喜びのおとずれ」という意味です。
福音が到来するまでには、長い準備の期間がありました。
それは具体的には、イスラエルの民の歴史です。
神はイスラエルの民を選んで、ご自分の意思を表されました。
しかし、イスラエルの民は、その神の意志に忠実ではなかったのです。
そして旧約の預言者たちは、そういうイスラエルの民とは違って、真の救い
をもたらす方が到来する、ということを預言しました。
彼らは神によって与えられた律法に基づいて、イスラエルの民の罪を非難し
ました。
従って、この準備の時は、また律法の時でもありました。
そこで、旧約の時代は、福音の準備の時であった、ということができます。
そしてマルコは、その福音の準備の時の最後を締めくくったのが、洗礼者ヨ
ハネだというのです。
マルコは、福音書を書くに当たって、まず福音の準備を締めくくったバプテ
スマのヨハネの記事から書き始めるのです。
4節。
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの
洗礼を宣べ伝えた。
主イエスは最初、このバプテスマのヨハネの弟子であったようです。
9節を見ますと、イエスはこのヨハネから洗礼を受けています。
このヨハネは、どういうグループに属していたのか分かりません。
しかし、当時のユダヤ教の主流派ではなかったようです。
当時、エルサレムに本拠地があったユダヤ教の主流派から離れて、死海のほ
とりで共同生活をしていたエッセネ派というのがいました。
そのエッセネ派が共同生活をしていた遺跡が死海の近くのクムランという所
にあります。
私たちも先年のイスラエル旅行において行きました。
辺り一面荒れ野の真ん中の小高い丘にこのクムランの修道院はありました。
そこには、荒れ野の真ん中でも人々が暮らせるように食料の貯蔵庫や水槽や
風呂などもありました。
そして、写本室があり、そこで聖書の写本の仕事が行われていました。
そのすぐ近くの断崖絶壁の洞窟から20世紀の最大の発見物と言われる
「死海写本」が発見されました。
さて、このバプテスマのヨハネは、このエッセネ派に属していたのではな
いか、という説があります。
しかし、はっきりとは分かりません。
むしろ彼は、そのようなユダヤ教のグループに属するのでなく、旧約の預言
者のように単独で活動していたようです。
さて、ヨハネは、荒れ野で活動したとあります。
6節には、
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて
いた。
とあります。
エッセネ派は、都会の生活をあえて避けて、荒れ野で禁欲的な生活をしてい
たようですが、ヨハネもそのような生活をあえてしていたようです。
都会の生活は、神の恵みを忘れ、罪を犯しやすいと考えていたのではないで
しょうか。
彼は、その荒れ野で、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝
えていた、とあります。
ここには、具体的な言葉は言われていませんが、マタイによる福音書の方で
は非常に厳しいことが言われています。
マタイによる福音書3章7-10節。(P.4)
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔
い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思って
もみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たち
を造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良
い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
彼は特に、都会の貴族や、ユダヤ教の指導者たちの罪を鋭く非難しました。
その代表的な話は、当時の王であったヘロデ・アンティパスを非難したこと
です。
このヘロデ・アンティパスは、自分の兄の妻であるヘロデヤを奪って自分の
妻にしたので、ヨハネは律法に基づいて、この王を激しく非難しました。
このことで、ヘロデ・アンティパスは、ヨハネを捕らえ、獄に入れたので
す。
今日のテキストの少し後の1章14節に「ヨハネが捕らえられた後」とあり
ますが、これはこのヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを言っています。
さらに、自分の結婚のことで非難されたことに怒りを覚えたヘロデヤは、自
分の連れ子であるサロメの踊りの褒美として、ヨハネの首を要求したので
す。
このように、バプテスマのヨハネは、時の王に最後は殺されてしまったので
す。
そのようにして、ヨハネは、イエスの福音の準備をしたのです。
ヨハネの影響は多くの人に及び、彼からたくさんの人が洗礼を受けた、とあ
ります。
5節。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告
白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
そして、ヨハネの弟子となった人の中には、ヨハネこそ来るべきメシアだと
信奉した人も多かったようです。
それは、初代教会の時代にも、ヨハネを信奉する集団があったようです。
そこで聖書では、ヨハネはメシアではなく、メシアを指し示した人として位
置づけたのです。
ヨハネによる福音書1章8節では、「彼は光ではなく、光について証しをする
ために来た」と言われています。
そして、今日のマルコによる福音書においては次のように言われています。
7-8節。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わた
しは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で
あなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
バプテスマというのは、水に浸すという意味です。
これはヨルダン川で行われていたとありますが、全身を水に浸かったのです。
それでもって、自分の過去の罪を洗い流す、という意味がありました。
現在においても、洗礼の時に、近くの川で全身を水に浸かるというやり方を
している教派もあります。
また、会堂の講壇の下が水槽になっていて、洗礼式の時はそこに水をためて
そこに全身を浸すというやり方をしている所もあります。
バプテスト教会などはそうです。
私たちの教会ではそのようなことはしていませんが、水は必ず使います。
それはやはり、私たちの罪を洗い流すという象徴的な意味があります。
しかし、全身を水に浸かったからと言って、それで私たちが完全に清くな
るのではありません。
私たちは、なお罪を犯す弱い存在です。
水で授ける洗礼は、不完全なものです。
ここでヨハネは、水で洗礼を授ける自分と、聖霊で洗礼を授けるイエスとを
対比しています。
バプテスマのヨハネは、多くの人にバプテスマを授けましたが、これはあく
まで限界のある人間の業でした。
私たちの罪が完全に清められるのは、その人間の力の越えた業です。
ヨハネは「その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」と言っています。
私たちは、聖霊の力によらなければ、自分たちの力によっては、決して自分
の罪を清めることはできません。
ヨハネの発言はそのことを言っています。
私たちを罪から清めることのできるお方は、キリスト以外にありません。
ヨハネによる福音書1章29節では、バプテスマのヨハネはイエスを見た時、
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
と言いましたが、これは非常に正しい発言です。
イエスこそが、世の罪を取り除くことのできるお方です。
私たちの洗礼においても、水が使われますが、その水の力によって罪を清め
るのではありません。
水そのものに、魔法のような力がある訳ではありません。
その水は、象徴的なものです。
それは、神の小羊たるキリストが聖霊をもって私たちを清めてくださるとい
う象徴として用いているのです。
さてここで、バプテスマのヨハネは、福音であるイエス・キリストの到来
の道備えをなす者だ、と言われています。
2-3節。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使
者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
これは、イザヤ書40章3節からの引用です。
これは、第二イザヤの預言です。
第二イザヤの時代は、人々は自分の祖国を失ってバビロンに捕囚になってい
た時代です。
人々は、全く希望を失い、生きる望みもなかったのです。
その絶望のどん底にある人々に、第二イザヤは慰めの預言を語ったのです。
彼は、荒れ野に道が用意されよとしている、というのです。
荒れ野は、人の通らない、人の住まない、厳しい自然条件の所です。
そこに、捕囚の人々が帰るために道ができている、というのです。
これは神の奇跡です。
しかし、第二イザヤの預言は、具体的に砂漠に道路ができるというのでは
ありません。
それは、真の命に至る道が備えられる、ということでした。
今や、真の命であり、福音であるイエスが到来しようとしている、その道備
えが必要なのです。
バプテスマのヨハネは、そのために神によって用いられた人物だったので
す。
福音の初めにまず、その道備えをなすバプテスマのヨハネの働きが必要であ
ったのです。
そして、私たちの教会も、この道備えの使命があるのではないでしょうか。
教会は、福音であるイエス・キリストを常に正しく指し示さなければなりま
せん。
私たちもそのための働きをなしていきたいと思います。