CH060711     2006年7月11日     大学院チャペル
         ルカ12章13-21節
         「“いのち”を考える」
         451
 
 今日は、皆さんと共に“いのち”ということを考えてみたいと思います。
現在私たちは、「生きて」います。
それは、“いのち”が与えられているからです。
しかし、この“いのち”は、いつかは取り去られるものです。
人間は、すべて死すべき存在です。
これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。
この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。
どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があって
も、死を免れることのできる人はいません。
昔、秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうと
して、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということです。
私の郷里は和歌山県の新宮というところですが、そこには徐福の墓というの
があります。
この徐福は、秦の始皇帝の命令で不老不死の薬草を捜すために日本に来た人
です。
しかし、日本にもそんな薬草が見つからず、とうとう中国に帰れずに日本で
死んだという伝説の人です。
死はすべての人に平等に訪れます。
秦の始皇帝のようにどんなに権力があっても、どんなに財産があっても、ど
んなに智恵があっても、例外なく訪れるのです。
そしてその時は、誰にも分からないのです。
弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとして
いた人があるとき突然死ぬこともあります。
いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつ
かは“いのち”が取り去られる日がある、ということです。
この“いのち”は、私たちにはどうすることもできないものなのです。
私たちは、神によってこの“いのち”を与えられて、ある期間この世に生き
ますが、しかしいつかはこの“いのち”は神によって取り去られるのです。
それ故私たちは、この“いのち”に関しては、厳粛にならざるを得ません。
 そして重要なことは、この“いのち”を与えて下さった神との関係に生き
る、ということではないでしょうか。
創世記2章に神が人間を造られたという記事があります。
  主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の  息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
聖書の理解によれば、私たち人間が「生きる」ためには、神から「命の息」
を与えられなければならないのです。
これは、私たちは“いのち”の与え主である神との関係に生きる、というこ
とです。
“いのち”の主は私たちではなく、神である、ということです。
 先ほどお読みしたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちの
たとえ」をされました。
この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れ
て、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。
その時神は、20節のように言われました。
 
  「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、
  いったいだれのものになるのか」
 
この金持ちの農園主は、“いのち”の主は自分であると考えていたのです。
多くの財産をもったので、いくらでも生きられると思ったのです。
しかし、“いのち”の主は、人間ではなく、神なのです。
私たちの“いのち”は、この“いのち”の主である神によって与えられたの
です。
そして、“いのち”の主は、また私たちから“いのち”を取り去ることもでき
るのです。
ここで“いのち”と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。
これはまた「魂」とも訳されます。
これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、その根本は、神との関係における本来の人間の
“いのち”です。
この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見え
なかったのです。
そこには、その“いのち”が神から与えられたものという意識は全くありま
せん。
私たちの“いのち”が、神から与えられたものと認識するならば、その“い
のち”を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。
神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでも
あります。
この金持ちの農園主は、自分は沢山の食料が収穫できて何年でも贅沢に暮ら
すことができると喜んでいますが、食料にもありつけない貧しい人のことは
何も思わないのです。
 “いのち”が神から与えられたものだと意識するなら、自分の“いのち”
だけでなく、他の人の“いのち”も大切にします。
最近幼い子どもの命が奪われたり、子どもが親を殺したりという事件が多く
起こっていることは、まことに悲しむべきことです。
神から与えられた尊い命をもっと大切にすべきだと思います。
 あるアンケートの調査に、「あなたにとって最も大切なものは何ですか」というのがありました。
その答えで一番多かったのは、「健康」と答えた人です。
ついで、「毎日を平和に過ごす」というのでした。
あるいは、財産と思っている人も多いでしょう。
健康で、毎日平和に過ごせたらそれでいい、と考えている人が多いと思います。
「健康であること」そして「毎日を平和に過ごす」ことは、それ自体決して悪いことではないでしょう。
しかしそこで、一番肝心な“いのち”が与えられていることを忘れるなら、それは非常に自己中心的になるのではないでしょうか。
すなわち、自分さえ健康であればいい、と考えるのではないでしょうか。
そうすると、健康でない人の苦しみは見えません。
健康が一番幸福だとすると、病気の人は不幸な人だということになります。
たとえ健康を害していても、その魂(プシュケー)が生き生きしている人もいます。
 作家の三浦綾子さんは、カリエスとか癌とかパーキンソン病など、あらゆる病気に悩まされました。
しかし彼女は、健康な人よりもっと生き生きした魂の持ち主であったように思います。
『氷点』という小説を読んだある少女が、主人公と自分の運命を重ね合わせて自殺したことを知ったとき、今後は人々に生きる希望を与える小説を書こうと決心した、ということです。
そして、事実彼女の小説や随筆を読んで、生きる希望を与えられた人が非常に多くいます。
あるいは、彼女はあのような病気にかかったので、かえって人々に希望を与えるような小説を書けたのかも知れません。
『生かされてある日々』という随筆がありますが、病気だったからこそ、生きているのが当たり前ではなくて、神によって生かされているという恵みの思いが強かった、と言っています。
三浦さんなどは病弱であったかも知れませんが、魂(プシュケー)は健康であったと言うことができるでしょう。
逆に、体は至って健康であっても、魂が死んだようになっている人もいます。
また、「毎日を平和に過ごす」ということを最も大切に考えている人がいます。
確かにそれは大切なことであると思いますが、これも“いのち”を与えて下さった神との関係を無視するなら、自己中心的な生き方になってしまいます。
すなわち、自分さえ平和に過ごせたら、他の人が平和でなくても平気なのです。イエスの譬えの金持ちの農園主はまさにそうでした。
そうではなく、私たちは、一番大切な“いのち”を神から与えられているということを認識して生きたいと思います。