2006年6月27日     大学院チャペル
     ヨナ4章1-11節   「神の愛」
 
 今日は、旧約聖書のヨナ書を学びます。
ヨナ書は、分類からすると預言書に入っていますが、預言者の言葉が記され
ているのではなく、ヨナという預言者の物語です。
この物語が書かれた頃、ユダヤ人の間では、偏狭な選民思想が横行していま
した。
そしてこのヨナ書の著者は、それを批判するためにこの書を書いたのです。
4章1節に、
 
  ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
 
とあります。
なぜ怒ったのでしょうか。
ヨナは、3章4節のところで、
 
  「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
 
と預言しました。
するとヨナの言葉を聞いたニネベの人々は王様を先頭にみんな断食をして悔
い改めた、というのです。
それをご覧になって、神は、ニネベの町を滅ぼすことをやめられた、というの
です。
しかしヨナは、それに非常に不満だったのです。
これには、捕囚後の、ユダヤ人の偏狭な選民思想が反映されています。
彼らは、自分たちは神に特別に選ばれた民であるという優越感を持ち、異教
の民を軽蔑していました。
神を信じない異教の民は、滅ぼされてしかるべきだ、と考えていました。
その考えをここでヨナが担わされているのです。
それに対して神は、異教の民であるニネベの人々をも愛されるのです。
異教の民だからといって、神は決してだれも滅んでほしくはないのです。
そのことをヨナに分からせるために、神はひとつの出来事を起こされまし
た。
ヨナは、ニネベの町の東の小高い丘に小屋を建てて、ニネベの町がどうなる
かを見届けようとしました。
時は、真夏だったのでしょう。
昼間は太陽が照りつけて、とても暑かったのです。
そこで神は、ヨナの苦痛を和らげるために、一本のとうごまの木を成長さ
せ、それがヨナの小屋を覆ったので、とても涼しくなり、ヨナは大いに喜ん
だのです。
ところが、翌日、今度は虫がせっかく小屋を覆っていたとうごまの木を食い
荒らしたので、枯れてしまった、というのです。
そこでヨナは、ぐったりとなり、死にたいと思った、というのです。
そして、神は最後に次のように言われました。
10-11節。
 
  「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一
  夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どう
  してわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
  そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がい
  るのだから。」
 
ヨナは、そして当時のユダヤ人は、異教の町であるニネベなどは滅んでしま
ったらいい、と思っていたのですが、神はそのようなニネベの町の人をも愛
し、決して滅んでしまうことを欲さないのです。
神は、たとえ邪悪な人でも、滅びることは欲されないのです。
4章2に、
 
  あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを
  くだそうとしても思い直される方です。
 
とあります。
私たち人間は、ややもすれば非寛容であり、悪いことをした人は厳しく罰し
てほしいのです。
特に最近凶悪な事件がよく起こりますので、犯罪者を厳罰に処してほしいと
いう風潮があると思います。
しかし、厳罰に処すということは、確かに被害者には気が収まるかもしれま
せんが、それで問題が解決する訳ではありません。
そしてそれは、被害者にとっても加害者にとっても真の救いとはならないで
しょう。
大体、死んでしまえば、悔い改めの機会を失うことになります。
反省して償うという機会もなくなることになります。
神は、私たちが罪を犯しても、悔い改めることをこの上なく喜ばれるので
す。
ニネベの人々は、ヨナが伝えた神の言葉によって、悔い改めたとあります。
「粗布をまとって灰の上に座する」というのは、深い悔い改めを表してい
ます。
そしてそれを神は非常に喜ばれるのです。
それに比べて、私たちは実に非寛容です。
ちょっとしたことを赦せないのです。
そして、厳罰を求めるのです。
しかし、厳罰によっては、人間は変わらないのです。
よけいに悪くなるかもしれません。
そうではなく、大きな愛に触れるとか、大いなる赦しに遭うと人間は変わる
のです。
犯罪を犯す人は、環境的に本当の愛に触れていない人かもしれません。
そういう意味では、彼らも犠牲者なのかもしれません。
そういう人が、本当の愛に触れるなら、変わるかもしれないのです。
そして真の救いはそれしかないのです。
 ヴィクトル・ユーゴーというフランスの小説家の有名な小説に「レ・ミゼ
ラブル」というのがあります。
貧しいジャン・ヴァルジャンが一片のパンを盗んだことから、19年間投獄
されましたが、やがて刑期が終わり牢獄から出されました。
しかし、せっかく釈放されても、彼には、これといった新しい生き方はありませんでした。
そこで、ミリエル司教の教会に泊まった時、銀の燭台を盗んでしまいました。
彼はすぐに警察に捕まえられ、再び牢獄に送られる所を、ミリエル司教はそ
れはあげたのだと言って、ジャン・バルジャンを助けたのです。
ここでジャン・バルジャンは、初めて人間の愛に触れたのです。
そして彼は、自分も愛に生きるように変えられたのです。
彼が、銀の燭台を盗んだということで、再び牢獄につながれたならば、人間
が変えられることはなかったでしょう。
私たちは、この大いなる神の愛に入れられていることを覚える者でありたい
と思います。