アモスの預言者意識
樋口 進
序
紀元前8世紀の中頃に、1 突如として北イスラエルに現れ、厳しい裁きの預言
をしたアモスは、いわゆる記述預言者(古典的預言者)の最初の人物とされて
いる。ところでアモスは自分のことを何者と理解していたのであろうか。王が
殺され、イスラエルの民が捕囚となるというアモスの過激な預言に不安を感じ
たベテルの祭司アマツヤは、彼のことを「先見者」(hz<xoo)と呼んでいる(7:1
2)。しかしアモス自身は自分のことを「預言者」(aybin")でもなく「預言者の
弟子」(aybin"-!b,)でもないと否定している。これは一体何を意味しているので
あろうか。アモスは自分のことをどう理解していたのであろうか。
J.ヴェルハウセンなど19世紀後半の預言者研究では、アモス以降の古典的
預言者を単独で行動した「倫理的改革者」と特徴づけたが、2 彼らには支持集団
がいたようであり、預言内容から推して過去の伝承を受け継いでいたようであ
るから、単独で行動したとは思われない。そのようなイスラエルの伝承をアモ
スはどこから得たのであろうか。また、彼はそのような伝承を担った集団とど
のような関係にあったのであろうか。またアモスは、当時の国際情勢などにも
良く通じていたと思われるが、彼はどこからそのような知識を得たのであろう
か。また彼は、ベテルの聖所で預言したようであるが、どうしてそのようなこ
とが出来たのであろうか。また、アモスの活動を支持し、彼の詞を保存した弟
子たちがいたようであるが、それはどのような集団であったのだろうか。この
ようなことを探求するのが、本論文の目的である。
T
アモスが何者であったかに関しては、いろいろな説がある。すなわち、祭儀
預言者、脱我的託宣授与者(職業預言者)、エルサレムの宮廷預言者、孤独なア
ウトサイダー、ヤハウェに立てられた民の代表者などである。E.ヴュルトヴァ
インは、アモスは裁きの言葉を宣べたが、この起源は世俗の法にではなく祭儀
の法に基づいていたので、アモスは祭儀と関係していた、と言う。3 アモスはま
ず祭儀と関係したナービーとなり、最初の二つの幻ではイスラエルのために執
り成しをし、それから後に初めてヤハウェの預言者となってイスラエルに裁き
の宣告をした、と言う。4 H.G.レフェントローヴは、ヴュルトヴァインの裁きの
言葉が祭儀に基づいていたという主張に従い、また祭儀預言者はその非難を契
約の民と外国の民に向けたとして、アモスは終始祭儀預言者であった、と言う。
5 彼は、アモス書のすべてのジャンルと文学様式は契約祭の祭儀の場にルーツが
ある、と言う。また、アモスの幻は、預言者の職務を祭儀的に宣告することと
関係していた、と言う。そして、3章3節-6章8節の章句は、契約更新の儀式の場
における儀式的裁きの宣告であった、と言う。6 W.ブルッグマンもレフェントロ
ーヴ同様に、4章4-13節のテクストを契約更新の儀式として解釈し、7章2,5節の
執り成しの定式を契約の儀式のコンテクストで理解した。7 R.スメントもアモス
を祭儀預言者と理解した。彼は、古典的預言の現象を社会学的に研究し、制度
の構造と役割においてアモスを祭儀預言者とした。8 またZ.ゼヴィトは、アモス
はエルサレムの宮廷の先見者(ホーゼー、7:12)であったが、ユダの利益のた
めに北王国に行きベテルの聖所でヤロブアムU世への反逆を宣べたのだ、と言
う。9
このようなアモスを祭儀預言者と理解する見方に対して、反論も数多くなさ
れてきている。G.ファーは、アモスは確かに祭儀伝承から彼の預言に引用した
が、彼自身が祭儀預言者であったというわけではなかった、と言う。10 G.フォー
ラーも、アモスが祭儀職員であったという意見に反対した。彼は、アモスが祭
儀の語りの様式を使ったとしても、様式と内容とは必ずしも一貫しない、と言
う。11 また、H.W.ヴォルフもアモスが祭儀預言者であったという意見には反対し、
レフェントローヴの所論を批判した。12 すなわち、1章3節-3章6節,4章6-11節,
9章13-15節のような箇所を祭儀の定式の借用であるという意見に反対した。彼
は特に、「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにする
ことはできない。」(8:2)というアモスの裁きの宣告は、長い期間祭儀で行われ
た機能と関係しているとは理解できない、と言う。さらに、7章15節において、
「ヤハウェが家畜の群れを追っているところからわたしを取った。」と述べられ
ているので、アモスが祭儀職員であったということははっきりと否定されてい
る、と言う。13 さらにヴォルフは、アモスの預言の背景が氏族の知恵にあると主
張した。この主張のために彼は、教訓的な問い(3:3-6,8,6:12)、「災いだの叫
び」(Wehe-Ruf)(5:18,6:1),数え詞(Zahlenspruch)(1:3,6,9,11,13,2:1,4,6)、
警告の言葉(Mahnrede)(5:14-15)などが古代イスラエルの知恵のテキストと
並行していることを検討した。14また、彼は「イスラエルと諸国民」(1:3-2:1
6,9:7)、「正しい道」(3:10)、「公正と正義」(jP'v.mi、hq'd'c.)(5:7,24,6:1
2)などのテーマと知恵の伝承との関係を検討した。15これらのことから彼は、ア
モスが氏族の知恵(Sippen-Weisheit)と深く関係していたと主張した。これに
対してクレンショウは、そもそも知恵というものは人々の経験に基づいている
ものであって、それゆえ一定の文体、語彙、神学的テーマが知恵や預言者や祭
司の伝統と共通になる可能性があるとして、ヴォルフの見解に反対した。16 彼は、
アモスが祭儀預言者であったという議論に反論するためにヴォルフはアモスの
精神的影響を誇張しすぎた、と言う。クレンショウはアモスが知恵の用語を用
いていることを認めるが、それは顕現伝承を通して得たものだ、と主張する。
17 すなわち、契約更新祭などの儀式において用いられていた顕現伝承の言葉をア
モスは採用したのだ、と言う。例えば、5章17節の「わたしがお前たちの中を通
る(rb;[')」という言葉や、9章4節の「わたしは彼らの上に目を注ぐ(
~h,²yle[] ynIôy[e yTi’m.f;w>)」という言葉などは、顕現伝承の用語である、と言う。し
かしそれは、はっきりとは確かめられないであろう。
アモスが特定の祭儀や特定の伝承と特別な関係にあったとする主張は実証す
ることができないであろう。R.E.クレメンツは、預言者の裁きのメッセージは
ヤハウェとイスラエルとの特別な関係の文脈において伝えられ、この関係は選
びや契約の伝承(神の法を含む)における表現や祭儀の儀式や宗教的祭りに広く
見いだされる、と言う。18ファン・デア・ウーデは、アモスが排他的な祭儀伝承
に立っていたり、祭儀職員であったり、部族の知恵の伝承にどっぷりつかって
いたり、顕現伝承から彼の預言を形成したりと言うことは、実証できないとい
う。19 木田献一は、アモスは王国の聖所における祭儀預言者でもなければ、職業
預言者団の一員でもなく、ヤハウェによって直接立てられたイスラエルの代表
者であった、と言う。20
アモスが何者であったかという問題については、いろいろな説があって、合
意が得られていないというのが現状であろう。
U
次に、アモスの個人的情報が記されている唯一のテクスト(1:1を除いて)であ
る7章10-17節を検討しよう。木田献一は、このテクストは伝記的記事であって、
弟子たちによって非常に早く、ヤロブアムU世の死(前747/6年)以前に文書化
された、と言う。21 また、G.M.タッカーは、このテクストを様式批判的に分析し、
このテクストはアモスが悔い改めの説教者であったのかそれとも裁きの宣告者
であったのか、祭儀とどう関係したのか、また自分を何と理解していたのか、
といった問いに答えてくれる、と言う。22 ただし彼は、このテクストには伝記的
関心はなく、預言者の伝説でもない、と言う。そうではなくこれは、預言者の
争いの物語であって、近い平行はエレミヤ書26,28章である、と言う。23またJ.ヴ
ェルリッツは、伝記的意図を持つテクストがアマツヤとアモスの対立がどうな
ったのかを報告していないのは目立つ、と言う。24アモスの宣告したアマツヤと
その家族に対するヤハウェの裁きの言葉はどうなったのか、なぜテクストはそ
れについて沈黙しているのかとしながらも、このテクストは歴史的・伝記的な
意図を持って著作された報告である、とする。25 いずれにしてもこのテクストは、
アモスの個人的な情報が記されているという点で貴重であるが、釈義上困難な
問題もある。すなわち、アモスの職務に関して、「先見者」とは何か、アモス自
身が「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」と言っているのは何
を意味しているのか、また、「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」とは一
体何を意味しているのか、などである。
このテクスト(アモスーアマツヤ物語)は、アモスの第3の幻(7:7-9)と第
4の幻(8:1-3)の間に後に挿入されたものと考えられる。そもそも幻は1人称に
よる報告であり、このテクストは3人称による物語であり、前後の文脈も関連し
ていない。26 それではなぜここに挿入されたのであろうか。それは、物語の「ヤ
ロブアム」(7:11)と幻の「ヤロブアム」(7:9)とが関係づけられたからであろ
う。27 さらにヴェルリッツは、イサクという語と聖所という語も両者に共通する
ことを指摘する。すなわち、vD'q.mi(聖所)という語は、十二小預言書全体で
アモス書7章9節と13節にしか使われていない。またイサクという語は、通常
qx'c.yI であるが、アモス書ではqx'f.yI(イサク)という語が使われており(7:9,
16)、この語は他にはヨブ記39章7,22節、詩編2編4節、37編13節、エレミヤ書
33章26節、アモス書7章9,16節、ハバクク書1章10節にしか使われていない、と
言う。28そこで彼は、9節と10-17節はお互い依存しているという。彼は、アモス
の弟子集団が紀元前722年のアッシリアによるサマリア征服の後にユダに逃れ、
そこでこの物語が編集されたという。29いずれにしても、後の編集者が9節と物語
とを関連づけ、これを第3の幻の後に挿入したのであろう。
このテクストは4つに区分することができる。すなわち、@10-11節、アモス
が背いたというアマツヤの報告、A12-13節、アマツヤのアモスに対する退去命
令、B14-15節、アモスのアマツヤに対する答え、C16-17節、アモスのアマツ
ヤとイスラエルに対する裁きの宣告、である。30あるいは、ヴェルリッツの言う
ように10-11節、12-17節の2つに区分することもできる。31 いずれにしても、こ
の物語の中心は14-15節であり、これはタッカーも指摘するように、アモス自身
に遡る確かな伝承であると思われる。32特に「言って、わが民イスラエルに預言
せよ」は、ヤハウェによるアモスへの直接の命令であり、アモスの預言者意識
を理解する上で重要である。
そこで次に、7章14,15節を検討する。ベテルの祭司アマツヤに対してアモス
は、「わたしは預言者(aybin")ではない。預言者の子(aybin"-!b,)でもない。」
と否定している。これはどういう意味であろうか。A.イエプセンは、aybin"か
ら派生した動詞はニファル形もヒスパエル形も紀元前8世紀の中頃までは「恍惚
状態に陥る」ことを意味した、と言う。33サムエル記上10章10-11節において、サ
ウルがギブアで預言者の一団に加わったときに新共同訳聖書で「預言する状態
になった」(abnのヒスパエル形)とか「預言する」(abnのニファル形)と
訳されている語は、ともに恍惚状態に陥ることを意味する(関根正雄訳参照)。
カルメル山でエリヤがバアルの預言者と対決したとき、バアルの預言者が「狂
ったように叫び続け」と新共同訳で訳されている語も、同じabnのヒスパエ
ル形である(王上18:29)。それゆえaybin"は、紀元前8世紀頃までは恍惚状態
に陥ることを通して託宣をのべていた職業的な預言者を表していたであろう。
そこでアモスは、そのような種類の預言者と自分を区別するために「わたしは
預言者ではない」と言ったのであろう。B.ヴァウターは、アモスだけでなく、
ホセア、ミカ、イザヤの紀元前8世紀の預言者たちも自分たちをaybin"とは理解
していなかった、と言う。34そして、7世紀の預言者エレミヤ、エゼキエルは
aybin"という語を問題なく自己称号として採用した、と言う。ヴァウターは、
ホセアは自分をaybin"とは理解していなかったと言うが、私見によれば初期と
後期で変遷があったと考える。すなわち、初期においてはaybin"を自分の称号
としては拒絶していたが、後期において正典的預言者の祖をモーセと位置づけ、
モーセをaybin"と表したことによって(12:14)自らもaybin"と理解したと考え
る。35 次に、アモスの拒絶した「預言者の弟子」(aybin"-!b,)という表現は、旧
約聖書においてはもっぱらエリシャの預言者団を指している(王下4:1,5:22,6
:1,9:1など)。これは、一人の教師を中心に集団を形成し、預言を職業としてい
た貧しい階層であった。アモスはこのような預言者のギルドに参加したのでも
ないと否定しているのである。
7章14節のアモスの答えは、名詞文であるので過去を表すとも現在を表すとも
取れる。W.ルドルフは、これを過去に取って、「わたしは預言者ではなかった。
預言者の子でもなかった。わたしは牧者であり、いちじく桑を栽培する者であ
った。」と訳し、現在は牧者の仕事を棄てて、預言者の子である、と理解する。
36 従って、アモスは祭儀預言者であったというのである。これに対してファン・
デア・ウーデは、この節は現在に訳すべきであると主張する。すなわちアモス
はここで、ヤハウェによって直接召命されたことを主張しており、従って彼が
預言者のギルドに加わった可能性は排除されるという。37 ヤハウェによる直接召
命は3章8節にも暗示されいる。「獅子がほえる。だれが恐れずにいられよう。主
なる神が語られる。だれが預言せずにいられようか。」ここには、ヤハウェに強
いられて預言せざるを得なかったというアモスの体験が反映されていると思わ
れるが、7章15節の「わたしを取り(xq;l')」という言葉も強制的なニュアン
スがある。いずれにしても、14節の名詞文は、現在に取るべきであろう。
アモスの以前の職業に関して14節で言われている「家畜を飼う者(rqeAB)」
も「いちじく桑を栽培する者(sleAB)」も旧約聖書においてはここにしか出な
いhapax legomenonである。従って、正確な意味は分からない。rqeAB は、牛
(rq'B')から派生した語として「牛飼い」と理解される。しかし、15節で「家
畜の群れ」と訳されている!acoは、牛のような大家畜ではなく、羊や山羊な
どの小家畜を意味する。そこで、rqeAB は、「牧者」を意味するdqenO(1:1)の
誤りだとか、動詞rqBからの推測で「監視人」と解釈する説がある。大住雄
一はそのように解し、歴代誌27章28節から、いちじく桑の管理は王の役人の職
務に属していたと言うが、38はっきりしたことは分からない。一方sleABは
「いちじく桑を栽培する者」で意見は一致している。ただし、いちじく桑
(hm'q.vi)はテコアのような高地には生育しないので、K.コッホや関根正雄な
どは聖書後のラビ文献にガリラヤ地方にテコアが出てくるので、アモスの出身
をガリラヤとする。39 しかしそれも不確かであり、むしろいちじく桑はシェフェ
ラーやヨルダン流域のような低地に生育したので、アモスは季節的にテコアの
高地から移動して栽培していた、と解することができる。40 そこでアモスは、羊
などの小家畜を飼う牧者であると同時に、農業も営んでいた(牛は農業の家
畜)比較的裕福な階層であったと思われる。彼の預言に反映されている国際的
な知識からも、決して貧しい階層ではなかったようである。H.シュルトは、羊
の群れを追っているところから神に召されたというのは、無名の者が民族の指
導者に立てられた場合の正当性を主張するために用いられた常套的表現であっ
たと言うが、417章14-15節はアモスの真正な言葉に遡ると考えられる。
この物語の中心は、14-15節の預言者の召命と任命であり、これはアモス自身
の主張が保存されたものであると思われる。ここでは、羊の群れを追うという
日常的な仕事をしているときにヤハウェによって強制的に預言者として召され
た、ということが主張されている。ただしアモスはここで、エレミヤ(1:5)や
エゼキエル(2:5)とは違って、自らを「預言者(aybin")」とは呼んでおらず、
むしろそれを拒絶している。すなわち、聖所に仕える祭儀預言者でもなく、人
々から報酬を取って預言する「預言者の弟子(aybin"-!b,)」でもないと主張して
いる。それではアモスは自分を何と理解していたのであろうか。アマツヤの言
った「先見者(hz<xo)」とも理解していなかったであろう(ちなみに、イザヤ
は自分のことをhz<xo と理解していたようである)。イザヤは自分に適当な言
葉が見つからなかったのではなかろうか。同じような事情は、ホセアにもみら
れる。42 マックス・ウェーバーは、正典的預言者を他と区別するものとして、経
済的な点、すなわち彼らの預言が無報酬であった、と特徴づけた。43 このような
預言者は、社会的地位や制度的保証がないために、自分たちの職務を自ら正当
化しなければならなかった。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどは「召命記
事」を記して書の冒頭においたが、これは彼らの預言者職を正当化することが
目的であった。44 そこで、このアモスがヤハウェによって直接預言者に任命され
たという記事は、後の「預言者の召命記事」の様式に影響を与えたと考えられ
る。
さてこのテクストは、アモスの言葉が真実であったとしてアモスの弟子たち
によって保存されたものと思われる。ただし、アマツヤに対する預言(7:17)
がその後どうなったかは、エレミヤの場合のようには(エレ28:15-17)報告さ
れていない。それゆえこの物語には伝記的関心はない。ただし、7章11節にも繰
り返されている「イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られ
る。」という預言は、紀元前722年のアッシリアによる捕囚によって実現した、
と捉えられたであろう。この物語を保存したアモスの弟子たちは、アモスがヤ
ハウェの言葉を語ったゆえにそれが実現したと確信した。そして、ベテルの国
家聖所の管轄者アマツヤと対比したのである。アモスの言葉を担った弟子集団
は、当時イスラエルにおいて広くあったカナン化された社会・宗教制度に反発
を覚えていたヤハウェ主義者であったと思われる。そしてアモス自身もそうで
あったであろう。ベテルの聖所は、ホセアの預言からも推測されるように当時
かなりカナン化されていたようである。すなわちヤハウェ礼拝は、バアル礼拝
と混淆されていた。そもそもヤロブアムT世が北イスラエルの王になったとき、
ベテルとダンを国家聖所とし、そこに金の子牛を安置した(王上12:28)。ヤロ
ブアムは「これはイスラエルから導き上った神だ」と言い、ヤハウェと別のも
のでないことを主張したが、金の子牛はバアルを連想させ、ここではカナン人
との融和が図られたのであろう。さらに彼は、「レビ人でない者を祭司に任じ
た」とあり(王上12:31)、レビ人はイスラエルの聖所から閉め出されたと思わ
れる。それと共に、イスラエルの聖所は広くカナン化されていったと思われる。
レビ人は、部族連合時代からのヤハウェ主義者であったと思われる。アモス書
2章11節で評価されている「預言者」と「ナジル人」もヤハウェ主義者であった。
ここの「預言者(~yaiybin>)」は、エリヤやイムラの子ミカヤなどの一連のヤハ
ウェ主義者の系列であると思われる。イエフによる革命は、カナン化に反発し
たヤハウェ主義者の後押しで断行されたものと思われるが、45ヤロブアムU世の
時代には、カナン人の商人たちの活動が活発になり、ベテルの国家聖所を始め、
国全体がカナン化していた。それで犠牲になったのは、部族連合時代からの伝
統を引き継いできた農民たちであった。その農民たちが、商人階級によって虐
げられ、アモスは部族連合時代からのヤハウェ主義の伝統(特に「契約の書」)
に基づいて、支配者階級を批判したのである。
V
さて、アモスの預言が向けられた相手は主にどのような人々であったであろ
うか。E.ヴュルトヴァインは、アモスが規準にしたのは契約の書にあるような
イスラエルの法であった、と言う。46アモスはとりわけ、弱い貧しい者を虐げる
富める支配者階級を痛烈に非難した。すなわち、わずかな負債のために奴隷に
売り渡したこと(2:6,8:6)、法外な科料を科したこと(2:8)、量りを偽ってぼ
ろ儲けしたこと(8:5)、粗悪品を売りつけたこと(8:6)、賄賂を取って貧しい
者に不利な裁判を行ったこと(2:7,5:10,12)、貧しい人の質物の衣服を夕方に
返さなかったこと(2:8)などである。これらのことは、イスラエルの古い法で
ある契約の書において禁じられていたことである(出20:22-23:19)。さらに、
R.バッハは、アモスの基づいた法は決疑法ではなく断言法であった、と言
う。47A.アルトは、イスラエルの法に2つの様式をを認めた。すなわち、決疑
法(das kasuistische Recht)と断言法(das apodiktische Recht)である。
そして決疑法は古代オリエントに広く認められるが、十戒に典型的にみられる
断言法はヤハウェ宗教に独特である、と特徴づけた。断言法も契約の書も部族
連合時代のヤハウェ宗教に起源があると思われる。そして、士師はこれらの法
に携わった者である。しかしダビデが大国を形成したとき、カナン人との融和
を図り、ソロモンがカナン人と協同したことによって、ヤハウェ宗教を中心と
した部族連合時代から大きく変化した。48このようなカナン化に反発を覚えたヤ
ハウェ主義者のグループがいろいろあったが、彼らは大体において古い部族連
合時代の法と宗教の伝統を守ろうとした保守主義者であった。いわゆる正典的
預言者を支持したのもこのグループであったと思われる。
王国前の部族連合時代の制度は、氏族民主制であって、原則として平等で自
由な村在住の構成員によって担われていた。その土地所有の特徴は、個々の氏
族と家族(民26:52-56,33:54)にできるだけ平等に配分された譲渡不能な相続
地(hl'x]n:)の観念であって(レビ25:23参照)、それは相続の場合だけ譲渡す
ることができた。49これに対して、カナン人は土地所有を自由に譲渡できる商品
と考え、彼らにとって利益追求と富は、無条件に積極的な価値を持っていた。
カナン出身の官僚は手段を選ばず自分の土地を増やそうとし、上流層に属した
イスラエル人もそれにならった。50 さらにこの状況の悪化に寄与したのは、王国
時代に、古い自然経済から貨幣経済に移行したことである。このような社会的
状況においてカナンの商人が利益を得、イスラエルの昔からの農民はますます
貧しくなっていった。アモスの活動した紀元前8世紀の中頃は、北王国も南王国
もヤロブアムU世とウジヤの長い治世の平和の時代であり、ちょうどこのよう
な状況であった(イザ5:8,ミカ2:1,2参照)。アモスはそのようにして没落した
貧しい(!Ayb.a,)弱い(lD;)農民を弁護している(2:7,4:1,8:6)。K.コッホは、
アモスはイスラエルの民がヤハウェの民としてすべて平等に約束の地に与るこ
とができるのだという基本理念を持ち、当時の貧しい農民たちが一握りの土地
とその上に建てた家とを手放し、債務奴隷に身を落としていく現実の社会を非
難したのだという。51
アモスはまた、町の門における裁判において、富める者が裁判官に賄賂を贈
っていかに「貧しい者」(!Ayb.a,)や「弱いもの」(lD;)を圧迫しているかを
告発している(5:11-12)。そしてここで、貧しい者が「正しい者(qyDIc;)」
だと言われている。アモスの主張は、5章24節で言われている「公道
(jP'v.mi)」と「正義(hq'd'c.)」であるが、これは契約の書などのヤハウェの
法に則った神と人との、また人と人との正しい関係を言い表す。アモスはこれ
に基づき偽りの礼拝をも非難する。ベテルやギルガル(4:4,5:5)で行われてい
た当時の礼拝は、カナン化の影響を受け、豪華な献げ物を献げ、騒がしい音楽
の演奏されたもので(5:21-23)、部族連合時代のヤハウェ礼拝とは様相を異に
していたようである。またアモスは、貧しい者を虐げる裕福な都会人に「災い
だ(yAh)」の叫びを発する(5:18,6:1)。H.W.ヴォルフは、この様式(Wehe-R
uf)は部族の教育の場に由来する、と言う。52そしてこの様式は、紀元前8世紀の
ユダの預言者イザヤ(1:4,5:8,10:1)、ミカ(2:1)にも見られる。いずれにし
てもアモスは、部族連合時代からのヤハウェ主義の伝統を継承する者であった、
と言うことができる。
また、カナン人の商人階級は、量りをごまかしてぼろ儲けをしていたようで
あるが(8:5。ミカ6:11参照)、このようなこともイスラエルの古い法において
は禁じられていた(レビ19:36参照)。
W
さて、アモスが何者であったかについてであるが、彼の自己証言(7:14-15)
から、元来家畜を飼い、季節によっては農業も営んでいた比較的裕福な者で、
かなりの教養もあったと考えられる。1章1節の表題から、彼の故郷がユダのベ
ツレヘムの南9キロのところにあるテコアであったという情報も信頼できるであ
ろう。そして、ある時羊を放牧するという日常的な仕事をしているときに突然
ヤハウェの召命を受け、イスラエルに預言せよという任命を与えられたた。ア
モスはここで並々ならぬ神の強制を感じたようである。新共同訳では訳されて
いないが、7章15節にはヤハウェが二度繰り返され、それが強調されている。53ま
た、「取る(xql)」という動詞にも強制のニュアンスがある。また、3章8節
の「獅子がほえる。だれが恐れずにいられよう。主なる神が語られる。だれが
預言せずにいられようか。」も神の強制を感じさせる。そしてアモスは直ちに北
イスラエルに行って、ヤハウェの言葉を伝えたと思われる。そして恐らく彼は
まずベテルの聖所に行って、そこで預言したであろう。ベテルは、北イスラエ
ルで最も南に位置し、テコアからはすぐ行けたであろうし、国家聖所として常
に大勢に人が集まったからである。しかし国家聖所で預言することなどできた
のであろうか。恐らくアモスは最初、祭儀預言者を装ったのではないかと思わ
れる。アマツヤがアモスに「先見者よ(hz<xo)」と呼びかけていることは(7:1
2)、アモスが聖所の預言者として人々に認められていたことを暗示する。アモ
ス書の冒頭に「諸国民に対する審判」があるが(1:3-2:16)、E.ヴュルトヴァイ
ンによると、この様式の場はイスラエルの祭儀(特に年毎の契約祭)にあった、
と言う。54それは周辺の敵を呪うという要素であった。恐らく聖所に所属した祭
儀預言者が、祭儀の一場面でそのような役割を果たしたと思われる。アモスは
ここで、ダマスコ、ペリシテ、ティルス、エドム、アンモン、モアブ、ユダと
イスラエルを取り巻く諸国に審判を宣べている。従って、アモスは祭儀預言者
の役割を演じたことになる。ただし、最後に自分の国であるイスラエルに対し
てより厳しい裁きを宣告しており、このようなことは祭儀預言者は行わなかっ
たことである。そこで、アモスは、祭儀預言者を装って、人の大勢集まるベテ
ルの聖所で預言するチャンスを得、そこで自分の目的であるイスラエルに対す
る裁きを宣告した、と考えられる。敵をも呪っていたのでしばらくは聖所で活
動できたが、やがて「ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえ
られて、その土地から連れ去られる。」(7:11)という過激な預言をしたために、
ベテルの聖所の管轄者であったアマツヤは黙認することができずに、アモスを
国外に追放した、ということではなかろうか。しかし彼はアモスを逮捕したり、
処刑したりはしていない。王に訴え、国家権力で何とかして欲しいと頼んだの
である。それはなぜであろうか。恐らくアモスには、かなりの支持者がいたか
らであると考えられる。特にアモス書で弁護されている貧しい農民たちである。
彼らは、王国前の部族連合時代から先祖の土地(hl'x]n:)を大切にしてきた者
であり、カナンの商人を中心とする支配者階級に虐げられていた人たちである。
アモスは、契約の書をしばしば引用したことからも分かるように、イスラエル
の古来の部族連合の伝統に立っていた。イスラエルには同じような伝統に立つ
ヤハウェ主義者が少なからずいたであろう。かつて、イエフ革命においてそれ
を裏で工作したのも、またイエフに協力してバアル崇拝者を根絶したたのもこ
のようなヤハウェ主義者たちであった(王下9,10章)。すなわち、エリシャが
「預言者の仲間(~yaiybin>h; ynEB.)」に命じて、イエフの頭に油を注いだことによ
って、イエフ革命が始まりオムリ王朝が倒されたのである。エリシャの預言者
集団(~yaiybin>)は、貧しいヤハウェ主義者であったが、アモスの時代にもこの
系統を引く集団があったであろう。55また、イエフに協力してバアルの崇拝者を
根絶した者にレカブの子ヨナダブがいた(王下10:15)。このレカブ人は、カナ
ンの生活様式を嫌って、沃地の周辺で遊牧生活をしていたヤハウェ主義の集団
である。彼らはカナンの農耕文化の産物であるぶどう酒を飲まず、エレミヤは
彼らを非常に高く評価した(エレ35章)。恐らくアモスの時代にもレカブ人の集
団はいたであろうし、それなりの影響力を持っていたと思われる。また、2章1
1節の「ナジル人」もヤハウェ主義者であった。サムソン(士13:5)もサムエル
(サム上1:28)もナジル人であったが、彼らは母親の誓願によってヤハウェに捧
げられた者である。また、北イスラエルの聖所から排除されたレビ人も部族連
合時代の伝承を守り続けたヤハウェ主義者であったであろう。56H.W.ヴォルフは、
ホセアがレビ人と非常に近い関係にあり、ホセアの精神的故郷がレビ人であっ
たと主張した。57ベテルとダンに金の子牛を安置したヤロブアムT世によって聖
所から追い出されたレビ人は(王上12:31参照)、アモスの時代にも北イスラエル
においてヤハウェ主義の影響を及ぼしていたであろう。また、「国の民(#r,a'h'
~[;)」と言われている集団は、バアルの神殿を破壊したり(王下11:18)、ヨ
シヤを王につけたりしており(王下21:24)、イスラエルの古来からの伝統を守る
ヤハウェ主義者であった。これは旧約聖書においては、南ユダにおいて言われ
ているが、恐らく北イスラエルにおいてもかなりの勢力持っていたであろう。
アモスはあるいは、ユダのテコアにおいてこの「国の民」に属する者であった
かも知れない。いずれにしても、アマツヤが過激な預言をするアモスに手出し
をすることができなかったのは、アモスを支持するヤハウェ主義者を恐れての
ことであったのではなかろうか。
一方、アモスの時代、ヤロブアムU世の長い治世(前787-747年)のもとに国は
繁栄し、平和を享受していた。この時代カナン人の商人階級が勢力を拡大して
いたようである。彼らは、イスラエル古来の土地法を無視し、部族連合時代か
らの嗣業(hl'x]n:)を大切にしてきた農民階級から巧みに土地を取り上げ、大
土地所有を拡大していた(イザ5:8参照)。そして借金を返せない農民を簡単に奴
隷にしていた(アモ2:6,8:6参照)。また彼らはイスラエルの古来の法を無視し、
不正な商売をしてぼろ儲けをしていた(アモ8:5-6参照)。そして政治の支配者も
宗教の支配者も裁判官もカナン化の影響を受けていたのである。そのような中
で部族連合時代から続いていた農民階級が虐げられていたのである。このよう
な状況にあってアモスは、貧しい農民の立場に立ち、部族連合時代の契約の書
などのヤハウェの法に則り、公正(jP'v.mi)と正義(hq'd'c.)を主張したので
ある(5:24)。
アモスは、自らをヤハウェによって直接召命を受けたヤハウェの預言者と理解
した。しかし、自らを聖所などの制度に属していたあるいはそれを職業にして
いた「ホーゼー(hz<xo)」や「ナービー(aybin")」や「ベン・ナービー
(aybin"-!b,)」とは区別した。まさに、マックス・ウェーバーの言うように無報
酬で働いた。そして彼は、部族連合時代よりの特にヤハウェの法に基づくヤハ
ウェ主義者と理解していた、と考えられる。
1 ヴィリー・ショットロフによると、アモスの登場は時代史の状況ではイス
ラエルのヤロブアムU世の40年にわたる治世(前787-747年)のうち早くとも
その半ば以降であり、遅くとも前760年頃である(柏井宣夫訳「預言者アモス
ー社会史的な面からその登場を評価する試みー」、『いと小さき者の神ー社会
史的聖書解釈』新教出版社、1981年、58ページ)。
2 J.Wellhausen, Prolegomena zur Geschichte Israels, Berlin/Leipzig:
Walter de Gruyter , 19276.
3 E.Würthwein,‘Amos-Studien’, Wort und Existenz, Göttingen, 1970,
S.68-110.
4 Ibid., S.86.
5 Henning Graf Reventlow, Das Amt des Propheten bei Amos, Göttingen:
Vandenhoeck & Ruprecht, 1962.
6 Ibid., S.24-30.
7 W.Brueggemann, Amos 4:4-13 and Israel's Covenant Worship, VT 15(196
5), 1-15.
8 R.Smend, Das Nein des Amos, EvTh 23(1963), S.404-423.
9 Z.Zevit, A Misunderstanding at Bethel, Amos 7:12-17, VT 25(1975), 78
3-790.
10 G.Farr, The Language of Amos, Popular or Cultic?, VT 16(1966), 312-
324.
11 G.Fohrer, Bemerkungen zum neueren Verständnis der Propheten, Studi
en zur alttestamentlichen Prophetie (1949-1965), BZAW 99, Berlin:De Gr
uyter, 1967, S.18-31.
12 Hans Walter Wolff, Die Stunde des Amos. Prophetie und Protest, Mün
chen:Chr. Kaiser Verlag, 1969.
13 H.W.Wolff,(Tr. by Foster R. McCurley), Amos the Prophet. The Man an
d His Background, Philadelphia:Fortress Press, 1973,P.2-5.
14 Ibid., P.6-53.
15 Ibid., P.54-76.
16 J.L.Crenshaw, The Influence of the Wise upon Amos, ZAW 79(1967), 42
-51.
17 J.L.Crenwhaw, Amos and the Theophanic Tradition, ZAW 80(1968), 203-
215.
18 R.E.Clements, Prophecy and Covenant, SBT 43, London:SCM Press, 1965.
19 A.S.Van Der Woude, Three classical prophets: Amos, Hosea and Micah,
Israel's prophetic tradition. Essays in honour of Peter Ackroyd(ed.
by Richard Coggins, Anthony Phillips and Michael Knibb), Cambridge:
Cambridge University Press, 1982.
20 木田献一『イスラエル預言者の職務と文学ーアモスにおける預言文学の成
立』日本キリスト教団出版局、1976年
21 同上、121ページ。
22 G.M.Tucker, Prophetic Authenticity. A Form-Critical Study of Amos
7:10-17, In 27(1973), P.423-434.
23 Ibid., P.430.
24 Jürgen Werlitz, Amos und sein Biograph (Amos 7,10-17), BZ 44(2000),
S.233-251.
25 Ibid., S.235.
26 大住雄一「預言者アモスの召命ー『職務の倫理』論への序ー」、『神学』54、
1992年、125ページ参照。
27 吉田泰「アモス書」、『新共同訳旧約聖書註解V』日本基督教団出版局、
1993年、104ページ。その他、多くの注解書参照。
28 J.Werlitz, op.cit. S.237-239.
29 Ibid., S.242.
30 木田献一、前掲書、121ページ参照。
31 J.Werlitz, op.cit., S.239.
32 G.M.Tucker, op. cit., p.428.
33 A.Jepsen, Nabi: Soziologische Studien zur alttestamentlichen
Literatur und Religionsgeschichte. München, Verlag C.H.Beck, 1934.
34 B.Vawter, Were the Prophets Nabi's?, Biblica 66(1985), 206-219.
35 樋口進「ホセアの預言者理解」、『ヴィア・メディア』3号、2003年、1-16
ページ参照。
36 W.Rudolph, Joel-Amos-Obadja-Jona, KAT 13,2, Gütersloh, 1971, S.256.
37 A.S.Van Der Woude, op. cit., p.36.
38 大住雄一、前掲書、124ページ。
39 関根正雄『関根正雄著作集 第四巻 旧約聖書序説』新地書房、1985年、
166ページ。
40 木田献一、前掲書、127ページ参照。
41 Hermann Schult, Amos 7,15a und die Legitimation des Außenseiters,
Probleme biblischer Theologie(ed. by H.W. Wolff), Kaiser Verlag,1970,
S.462-478.
42 樋口進、前掲書参照。
43 マックス・ウェーバー、内田芳明訳『古代ユダヤ教U』みすず書房、1964
年、435ページ。
44 拙稿「預言者の召命記事」、『神学研究』23号、1975年、1-28ページ参照。
45 これについては、ヴァルター・ディートリヒ、山我哲雄訳『イスラエルと
カナンー二つの社会原理の葛藤』新地書房、1991年、69-82ページ参照。
46 E.Würtwein, Amos-Studien, ZAW 62(1949/50), S.48.
47 Vgl. Rudolf Smend, Das Nein des Amos, Gesammelte Studien Band 1,
Die Mitte des Alten Testaments, München: Chr. Kaiser Verlag, 1986,
S.86.
48これらの事情については、ヴァルター・ディートリヒ、前掲書、29ページ以
下参照。
49 ヴィリー・ショットロフ、前掲書、79ページ参照。
50 同書、82ページ。
51 K.コッホ、荒井章三、木幡藤子訳『預言者T』教文館、1990年、100-101
ページ。
52 H.W.Wolff, Ibid., P.17-33.
53 原文通り訳すと、「ところがヤハウェは群れに従っているところからわた
しを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』とヤハウェはわたしに言
われた。」となる。
54 E.Würthwein, Der Ursprung der prophetischen Gerichtsrede. ZThK 49
(1952), 1-16.
55 アモス書2章11節の「預言者」は、~yaiybin>である。
56 拙稿、注(35)参照。
57 H.W.Wolff, Hoseas geistige Heimat, ThLZ 81(1956), Sp.83-94.